秋葉原といえば、「赤津加」


秋葉原に行くのは神田で古本屋を廻ったあと、ラジオ関係の細かい部品を眺めに行くこと、そして、老舗の居酒屋「赤津加」で熱燗を飲むのがいい。なんたってこの店は菊正宗を置いてあるところが居酒屋として信用できる。
この街がいつの間にやら、微妙に○○喫茶のような風俗まがいの街のイメージに変貌をしてしまった。電気やプラモなどが好きなのが「オタクの街」、それがフィギィアや○○系アイドルのようなのが好きなのが「ヲタクの街」。「お」の筆記が違うと言うことを初めて、岡田斗司夫さんの本「オタクはすでに死んでいる」で知った。昔はプラモ好きや電気が好きな工学系男子の街だったのがなつかしい。僕の仲良しのプロデューサーは高校時代から秋葉原に通って、自作のパソコンを作っていたという、男心をそそる話しをしてくれる。
 その街で、この前、あの悲惨な事件が起きた。
 20代から30代の社会学者がまさに、ホームウエイのネタだとばかり、いろんな媒体で胸を張って話し出した。アキバに精通していることがこの事件を語るに値することなのか?重要な条件なのか?
 だから、アキバ世代ではない団塊の世代の論客の意見を知りたいと思った。
団塊の世代神戸女学院大学文学部総合文化学科の教授内田樹さんの意見はこうだ。
この事件は本歌取りであるからやっかいだということ。本歌取りとは(、和歌、連歌などの技巧の一つ。 すぐれた古歌や詩の語句、発想、趣向などを意識的に取り入れる表現技巧)内田さんは大滝詠一さんを尊敬する方なので、この大滝さんがよく使う本歌取りという表現方法を使ったのだと思う。
つまり、あの事件の動機は過去の悲惨な事件を「真似てみることが第一義」だった?のではということ。そして、 犯人と被害者の方の関係にはなんの関係性もないこと。さらに被害者の方同士にもなんの関係性もないという極めて、特異な事件であったこと。この事件を分析したり、語ったりすることが、とても難儀なことであるという内容を話しておられた。
 内田さんはこの事件について、あえて、うまく語れないことを選択したのだと思う。発言が意味を持つ人が語ることによって、新たな何かの事件が起きるともしれない危険を恐れたのかもしれない。