バートバカラックに背中を押されて    バカラック2023年2月に逝く

このまま死んでもいいと思った。そんなことを思うのは初めてだ。
 ビルボードでバートバカラックを見て来た。バカラックを見るのは、三度目ですが、こんな近くで見るのは初めて。
 バカラックとの出逢いはウォーカー・ブラザーズのMake It Easy On Yourselfバージョンが65年に全英第1位になった時、僕は小学5年生だった。
 当時、ウォーカー・ブラザーズのファンだった僕はクレジットを見て、バカラックという作曲家を知る。この曲、元々Dionne Warwickのために書かれた作詞家ハルデヴィッドとの曲。バカラックに俄然、興味を持った僕はその直後、調べていて、62年にバカラックの曲をビートルズのBaby,It’s You”をすでにカバーしていたことを知る。その曲が実は61年のシュレルズに書いた楽曲だったことは後年知る事になる。
 自分が作詞作曲者のクレジットを見始めるのは1965年、小学校上級生の時代からだ。
 バカラックのアルバムを最初に手にしたのは「BURT BACHARACH / REACH OUT」1967年の中学一年の時である。
 毎日、家の応接間のステレオで大音量でこのアルバムを流しながら、バカラックになりきり、指揮の真似をした。間の悪いことに、一番盛り上がるところで、父が父の部屋に行く通り道なので部屋に入って来る。とても、気まづい思いをしたが、父は見て見ぬふりして、行ってしまうと、僕は気を取り直して、指揮を再開する。これはビートルズのツイストエンドシャウトやヘイジュードのシャウトをレコードに合わせて歌っている時も何度も体験したイタい光景。
 中学の野球部の連中にも無理矢理、バカラックを聞かせて洗脳した。
中三の時の試合の時は試合前に家に集合、バカラックを聞き、フォークルの歌を脈略なく合唱して、試合にのぞみ、勝つ。うちのチームは市で決勝まで行く実力だった。歌が、チームの結束を深めた。中ニの部員から、中三の我々は歌キチガイ、略して歌キチと言われた。
 練習の帰りがけにハモって我々は帰った。
 バカラックを初めてコピーしたのは確かカーペンターズの「遥かなる影」だと思う。家のピアノで耳コピーした。イントロがコピーできた時のうれしさや。初めて、オリジナルソングを作ったのもバカラックの影響で中学生の時、メージャー7系のピアノインストのたわい無い曲だった。
 そして、来る日も、来る日もバカラック漬け。
自分は、空想の世界で、何故か1950年代の中産階級アメリカの家庭に住んでいる大人の気分になってバカラックに聞き惚れていた。
 高校一年に入学すると、そのバカラック熱は加速度を上げて行く。音楽の先生が何故か、僕のポピュラー音楽好きを知っていて、「きみの好きなレコードをかけたまえ」とクラシック命のその先生は半ば挑戦的に言った。僕は受けて立ち、音楽の授業を一時間つぶして、バカラックのアルバム「「BURT BACHARACH / REACH OUT」」を僕が一曲ずつ解説する全解説をやった。(同級生は迷惑だったかもしれない)
  終わったあとに、その先生はひとこと「これは一体、なんの類いの音楽なんだ?」感想をもらした。この意味はいまだにわからない。馬鹿にして言ったのか?納得して感心して言ったのか?
 僕としてはポピュラー音楽でありながら、ドビッシーやボロディンのクラシックの音楽と決して引けを取らない20世紀の音楽と思って胸を張って解説したつもりだった。レナードバーンスタインとかと、同レベルであり、僕にとっては別格な音楽だった。
 高校一年の学園祭で、3人のコーラスグループで出演。演奏は僕の生ギターとスネアをブラシで叩く変則バンド。映画「Mash」のテーマ「Sucide Is Painless」、レターメンのバージョンで「 Going Out of My Head」、ビージーズの「ジョーク」、バカッラクの曲も3曲やったB・J・トーマスの「雨にぬれても」と「アルフィー」(バカッラック版で歌詞はなし。トランペットの口まねでやる)「恋にさようなら」。当時、クリームとかジャズロック全盛のコピー時代。先輩たちのギンギンのエレキサウンドの中で浮いた浮いた。
  初めて、バカラックに出逢って、綾小路きみまろではないが「あれから、48年」
 そのバカラックBillboard東京の楽屋から登場し、僕がその近くにいたものだから、僕の背中をトンと手の平で叩いた。
 「背中を押される」という表現があるが、まさにその感覚。あ、これでもう100年生きていけると、思ったし、逆にああ、もう、死んでもいいと思った(笑)
 80歳越えた高齢のためか、昔からビルエバンスのように背中を丸めてピアノを弾くので、その後遺症か?やや猫背のバカラック。僕は180センチくらいある人かと思ったら、170センチに満たない小柄な人だった。白いスニーカーをはいていた。
 最終日の一部の演奏だったが、バカラックのイントロから始まる所で、一度、アンプがハウッて演奏が中断。そのイントロのフレーズはバカラックマレーネデートリッヒの編曲をしていた時に使ったフレーズで僕は中学の時にコピーしていたフレーズ。マレーネデートリッヒではイントロではなく、エンディングに永遠繰り返されるピアノのmelody.。歌の本体ではないが、もの凄く美しいメロなのだ。再度、これを気を取り直して弾いたバカラックが弾く。このメロを二度聞けるとは不幸中の幸いだった
 僕はグループサウンズのオックスの赤松愛のようにまた失神しそうになった
 
 
 


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