五木 寛之さんが早稲田に入学したての頃、部室が並んでいて「ソ研」と書かれた札がさがっている部屋があった。腕をつかまれ、何がなんだかわからないうちに部屋へ引っ張りこまれた。

f:id:sugarbabe49:20220416120316j:plain

1952年。
五木 寛之さんが早稲田に入学したての頃、部室が並んでいて「ソ研」と書かれた札がさがっている部屋があった。腕をつかまれ、何がなんだかわからないうちに部屋へ引っ張りこまれた。
「早速始めよう。今日のテーマはジダーノフのジョシチェンコ批判について討論する」
「ソ研ってなんですか?」
「ソヴィート研究会に決まっているでしょ」
「今日は用事があるので失礼します」
「いくらかカンパしていけよ」
「金ないですから」
「あるだけでいんだよ 出せ」
マウリポリはスターリンの時代にジダーノフと呼ばれた。
ジダーノフはソ連文化政策推進役でいろんな作家や芸術家を厳しく批判した人物。
彼はマウリポリ出身なので、故郷の町にちなんで付けられた名前なのだろうか。
スターリンの側近の大物だった。
ジダーノフの名前を聞いただけで、詩人や作家が震え上がったという。

ちなみに五木さんは露文出身。
カンパという言葉が懐かしい。
以上のエピソードは週刊新潮の連載に書かれていた。
70年前の話だ。当時はソ連という国と日本の関係が今より、密だったし、憧れる日本人も
多くいたと物の本を読むと書かれている。