どっこい大衆は生きている

 「大衆」という言い方をしなくなって久しい。一般大衆というのは、人を見下したような言い方であり、人は 千差万別。【一緒くた】に人々をとらえるな。という配慮から使わなくなったことなのでしょう。
 しかし、どっこい、大衆は生きていた。
 
 今回の東国原知事の国政からの撤退問題です
 この問題の真偽のこととか、この問題に対する大衆の意見に対することを問題だと思っているわけでありません。
 問題だと思ったというか、不愉快に思ったのが、二言目に「芸人らしい行動なんじゃないですか」というコメントだ。こういう言い方が見下した言い方のような気もするし、芸人というカテゴリーの人が統一的な行動をとる習性などからっきしない。だからこそ、組織にとらわれない芸人という道を選んだことをわかっていない。
巷の人々だけではない(巷というのも変な表現だが)実は普段、あたかも、自分は大衆ではなく、大衆を語る側だと思うコメンテーター?にもこの手のコメントが多かった。こう人こそ、king of 大衆迎合主義者。
 東国原知事が当初、モテハヤされていた頃に多くの賛辞をこの手の人は送りました。それも実は裏を返せば、「芸人なのに、ここまでよくやった」というハンデを勝手に付けて、まるで、自分の愛犬が短期間にお手が出来たがごとく拍手を送っていたような気もしました。
 芸人は選ばれた人であり、たまたま芸に取り憑かれて、芸の道に突き進んだ人であり、芸に取り憑かれなければ、東大だって合格できる人が五万といますし、その反射神経はスポーツ選手だってなれる人だってたくさんいます。だから、明日は博士か大臣は?なんぞにだって当然なれるのです。
 自分は優れた芸人さんを端で見ていて、いつもそう思っております。自分と同じ職種に芸人さんが転職して来たら、どれだけ職を奪われることか。