11月11日ホテルオークラにて、草野☆キッドにご出演していただいている草野仁さんの愛息の裕さんとヨーコゼッターランドさんの華燭の典が行われました。
尾上という草野☆キッドチームのテーブルに浅草キッドくんとマネージャーさんの遠藤さん、富永さんらと着席しました。
新郎の裕さんとは、兄弟のようなお付き合いをさせていただき、僕らの、もっぱらの 話題はアメリカのテレビ番組や映画。今はもう、有名ですが、「lost」の映像もいち早く、裕さんさんに頂きました。アメリカの大学に行っていたくらいのアメリカンっ子の裕さんなので、アメリカンカルチャーに造詣がとても、深いのです。
歴代、名物マネージャーというのがいるものですが、裕さんもそのリストに入るキャラ。お父さんの仁さんも腰が低いが、さらにまた、地面に頭がつくのでは思うほど、腰が低く、物腰が柔らかい。厳格すぎる仁さんに、育てられた教育のなせる業。家庭教育の大切、影響を仁さんと裕さんの関係を見ていてとても感じます。
生き馬の目を抜く芸能界で、こういうぼっちゃまタイプのマネージャーさんを見ると、ホッとします。癒し系ってヤツ。
日本テレビの「ザ・ワイド」チームの作った裕さんとヨーコゼッターランドさんの出逢いのビデオの出来が秀逸で、裕さんとヨーコゼッターランドさんの小芝居が実にうまい。後半、泣けるように出来ていて、こっちは親戚のおじさんみたいになって、一瞬、「裕も大きくなってなあ」と胸がつまるところがありました。
さて、今回、ご出席したお客様の中で、もう、なんと言ったらいいのやら、僕のツボのお二人がご出席しておりました。
お一人は羽佐間正雄さん。
※ウイキペディアによると、
「法政大学卒業後、しばらく製薬会社に務めていたが、1954年7月にNHKに入局。2次募集採用でアナウンサーになった。防府(当時は放送局で現在は報道室)→広島→東京→大阪→福岡→東京で勤務。オリンピック実況、ゴルフ、プロ野球、サッカー、モータースポーツなどカバー範囲は多岐に渡り、1987年には「全米スポーツキャスター協会賞」の特別賞を日本のスポーツアナウンサーとして初めて受賞した。
同年に出した著書「実力とは何か」は、高校教科書にも掲載された。
1989年に定年退社後も専属キャスターとして実況を担当していた。
その後1990年代に入ってからテレビ東京のゴルフ中継の実況を担当した他、ニッポン放送のインタビュー番組「トヨタ・スポーツドリーム」のインタビュアー役を担当。
俳優・声優の羽佐間道夫は実弟。産業経済新聞社元社長・フジサンケイグループ代表の羽佐間重彰は従兄弟に当たる。」
草野仁さんが最も尊敬しているキャスターである。
僕というか、昭和30年代が青春だった僕らの世代にとって、羽佐間さんの中継で、どれだけ、感動させられ、スポーツの素晴らしさを教えられたか。
中でも、東京オリンピックの中継は当時、すぐに物まねしたし、「三沢高校VS松山商業」の延長18回の中継は中学三年だった野球少年の自分を三沢高校の選手になりきってみていた。
最近は、古館伊知郎さんに代表される「張る」中継が大方である。当時の羽佐間さんのスポーツ中継は決して張らない。張らないのに、視聴者に感動を与える。この技術はすごい。技術だけではない、「言霊」ではないでしょうか。
ご挨拶をしたが、おしゃべりな自分が感動のあまり、何も言葉が出ない。
「お世話になりました」と面識もないのに、そんな、間抜けなご挨拶をしてしまった。
でも、テレビを見ていて「お世話になりました」としか、言い方がないし、この感覚って大ファンだったスポーツ選手に思う気持ちと、同じなので、こうしかないのです。
ちょうど、著書「実力とは何か」と、同じNHK出身のアナウンサー北出 清五郎さんの「大相撲への招待」を、今、読んでいたところ。
何かが、呼んでくれたのか?
※ウイキペディア→北出 清五郎(きたで せいごろう、1922年12月5日 - 2003年1月19日)は、東京都出身のアナウンサー。
NHKのスポーツアナウンサーとして、大相撲を中心に数多くのスポーツ中継に出演。特に大相撲中継は定年退社した1980年以後もアナウンス顧問や解説者として長年にわたり出演した。また1964年に日本で戦後初めて開催された東京オリンピックの開会式実況(テレビ)で「世界中の秋晴れを東京に持ってきたような素晴らしい秋日和であります」や、1972年の札幌オリンピックにおける日の丸飛行隊・笠谷幸生の「飛んだ!!決まった!!見事なジャンプ!!」などの名セリフも残した。
さらに、この日、僕の「お世話になりました」が頂点に達したのは、東洋の魔女のキャプテン旧姓葛西昌江さんにお目にかかれたことです。
※ 県立巨摩高等学校卒業後、1952年、実業団バレーボールの雄 日本紡績㈱(ニチボー)貝塚(その後ユニチカとして日本リーグに参加)に入社。59〜64年までの6年間、国内外の試合において無敗175連勝を誇る。62年、モスクワで開催された世界選手権で旧ソ連を破り、優勝。このとき、地元プラウダ紙につけられたニックネームが「東洋の魔女」。64年、東京オリンピックでは回転レシーブや変化球サーブを駆使して金メダルを獲得。空前のバレーボールブームを巻き起こす。65年、ニチボーを退社し、3児の母に。現在、日本バレーボール協会運営理事・女子強化副委員長、全日本女子バレーボールチーム団長として、バレーボール界の躍進のため、全力を注いでいる。
当時、僕は小学四年生。イチローの前に、こういう人たちがいたんです。
世界に胸を張れる英雄。
どれだけ、誇らしく日本人のことを当時の日本人は思えたことか。
大松監督に当時の、全日本女子バレーボールチームの生理のある選手は注射を打たされて、生理を止めて、試合に出たというエピソードを聞いたことあります。
そういう悲壮感が漂っていて、僕はその悲壮感に酔いしれたものです。
僕は暗いのかもしれません。
そろそろ、女子の監督が登場するべきではないかと、個人的には思うのですが、何か事情でもあるのでしょうか?
※写真は旧姓葛西昌江さんと、涙のダムが決壊直前の僕。