Pat Metheny Secret Story
JEREMY LUBBOCK awakening
Epilogue - Jeremy Lubbock · Artful Balance
The Artful Balance Collection Vol.1
その中で飛び込んできたのが、ストリングスやオーケストラの名アレンジで知られるジェレミー・ルボックの訃報。長年、デヴィッド・フォスターやクインシー・ジョーンズから信頼を獲得し、映画音楽の世界でも活躍してきた人で、作曲/プロデューサー/キーボード奏者の顔も持つ。フォスター『THE SYMPHONY SESSIONS』でのコラボレイトなどは、まさに彼らしい仕事。これまでに、のべ16回もグラミー賞にノミネート。84年度にはシカゴ<Hard Habit To Break>とL.A.五輪公式アルバムからの<Grace (Gymnastics Theme)>で、フォスターと一緒に2つの最優秀アレンジ賞を受賞。93年には何と同一部門で同時に3曲ノミネートされ、やはりフォスターとの『THE BODYGUARD』<I Have Nothing>を打ち破って、<When I Fall In Love(恋におちる時)(セリーヌ・ディオン&クライヴ・グリフィン)が最優秀アレンジに輝いている。他にもマイケル・ジャクソン、バーブラ・ストライサンド、ケニー・ロジャース、アル・ジャロウ、ジョシュ・グローバンなど、著名共演者は数知れず。直近では、いま話題のトミ・マルム『COMING HOME』にも名を連ねていた。
生まれについてはハッキリしないが、おそらく英国生まれ。父親がクラシックの音楽家だったため、幼少から音楽に親しんだが、特に専門教育は受けておらず、ほとんど独学だとか。10代後半にジャズとアメリカン・スタンダードに目覚め、オックスフォード大卒業後は建築関係の仕事をしながら、ロンドンやパリのジャズ・クラブでピアノ兼シンガーとしてキャリアをスタートさせている。1953年、ビートルズで有名なジョージ・マーティンがプロデュースするセッションで、シンガーとして初レコーディングを経験。50~60年代はクラブで演奏しながら世界中を旅して回り、幅広い音楽を吸収。彼の音楽スキル、特にアレンジの才能を磨いている。それが実って、70年代初頭にはロンドンの2大TVネットワークであるBBCとITVで、ビッグ・バンドやオーケストラの編曲や指揮を受け持つほどになった。
77年には自分の才能を最大限に活かそうと、知人の招待に応じてL.A.へ移住。プロデューサーのヘンリー・ルーイに紹介されて、当時彼が手掛けていたジョニ・ミッチェル『MINGUS』とミニー・リパートン『MINNIE』にアレンジ/キーボードで参加。その仕事ぶりが高く評価され、クインシーやフォスターに重用されるようになっていく。
『SPECTRUM:Keyboards Strings Synthesizers』と題されたこのアルバムは、彼自身の初アルバム。発表は86年。タイトル通り、自分のピアノとシンセ、自らスコアを書いたオーケストラで創り上げたニュー・エイジ・ミュージック作である。めまいに悩まされる今の自分には、深い眠りにつけそうな安らぎの一枚。発売元の Artful BalanceはAORシンガーだったロジャー・ヴードリスが音楽ビジネス転向後に立ち上げたレーベルで、サックス/マルチ・ミュージシャンであるデヴィッド・ボラフのユニット:DREAMSTREET、お馴染みのkyd奏者ランディ・ウォルドマン、後にエリック・ゲイルやスティックス・フーパー(ex- Crusaders)の作品も出したが、短命に終わった職人の巣窟的レーベルだった。
ジェレミーの死因に関しては、コロナという噂もあるようだが、真偽は不明。キャリアを追うと、少なくても80歳台後半と思われるので、他の要因の可能性が大きいと思う。弟ジョン・ルボックは、67年に結成されたOrchestra of St John's Smith Squareの創設者/指揮者として、クラシック界では知られる存在。後年に兄弟共演も実現している。
イギリス生まれのラボックは、多彩な音楽スタイルで80年代と90年代のポップスやAOR〜ブラック・コンテンポラリー・ミュージックにおいて重要な役割を果たしました。
特にマイケル・ジャクソンの作品に深く関わり、マイケルがナレーターを務めたアルバム『ET』でクインシー・ジョーンズと共にアレンジを手掛け、マイケルの「Billie Jean」ではストリングスのコンダクターを務めたほか、マイケル1995年のアルバム『HIStory : Past, Present and Future, Book I』にはアレンジャー/コンダクターとしてクレジットされています。
幼少期から音楽的才能を発揮していたラボックは、オックスフォード大学に通いながら、ロンドンやパリのクラブでピアニスト/ヴォーカリストとしてプロの道を歩み始めました。50年代~60年代に海外のクラブで演奏し、様々な音楽的影響を受けたラボックは、70年代初期に英BBCとITVでアレンジャーの仕事に就きましたが、その後理想の仕事を求めてアメリカに渡りました。
1977年にロサンゼルスに移住してからは、ジョニ・ミッチェルのアルバム『Mingus』やミニー・リパートンのアルバム『Minnie』でアレンジを手掛け、これらの仕事に注目したクインシー・ジョーンズとデヴィッド・フォスターと仕事をするようになりました。
アレンジャーとしては、シカゴ1984年の「Hard Habit to Break」や、マンハッタン・トランスファー1983年の「The Night that Monk Returned to Heaven」、バーブラ・ストライザンド1994年の「Luck Be a Lady Tonight」、ホイットニー・ヒューストンの「I Have Nothing」などでグラミー賞にノミネートされ、いくつかの作品が受賞しています。
また、ソングライターとしても活躍したラボックは、デヴィッド・フォスターとリチャード・マークスと共作した「The Best of Me」がクリフ・リチャードによってレコーディングされ、1989年のUKチャートで第2位を記録したほか、パティ・ラベル&マイケル・クロフォードの「With Your Hand Upon My Heart」や、アル・ジャロウの「Not Like This」もヒットしました。
その他にも、ジェイムス・イングラムの「Whatever We Imagine」や、パティ・オースティンの「Alone In The World」など、数多くの一流アーティストの作品を手掛け、AOR/ブラコンの分野でも多大な貢献をしました。
安らかなる眠りをお祈りいたします。
イタリアの音楽家カルロ・ルスティケッリ~ピエトロ・ジェルミの映画音楽~