中村勘三郎さんとディズニー

中村勘三郎さんが亡くなった。勘三郎さんに最初にお会いしたのは1983年スタートのテレビ東京の番組「地球まりかじり」だった。テレビ界初の本格的グルメクイズ番組。当時、20%近い視聴率を叩き出した人気番組。中村勘九郎時代でクイズの解答者をしていただいた。歳は僕がひとつ上だが、子役から第一線で活躍している方なので、なんだか貫禄のあるオヤジさんのように見えて(実際は彼は20代だったと思う)ろくにこちらの方から、話しかけられなかった
 それから随分と時間が経過。1995年に勘三郎さんとラサール石井くんとアメリカのアナハイムのディズニーランドを旅する番組で一緒に同行した。何しろ、中村勘三郎さんは小学生の時に、本場アメリカのディズニーランドに行っている。ガンダム世代があるように、我々は小学生の時、ディズニー劇場(テレビ番組)で育ったディズニー世代である。僕らの世代はプロレス世代の初代だが、僕はプロレスに傾倒しなかった。というのも、金曜にオンエアしていたディズニー劇場がプロレスのオンエアのため、二週間ごとに放送に切り替わってしまい、ディズニーファンの一人としては不愉快であったからだ。映画『アッちゃんのベビーギャング』(1961年)の主役の アッちゃん役で、僕が小2の時、中村勘三郎さんは小一でベビーギャングというニックネームですでに大スターだった。当時、そのお仕事のご褒美として、本場アメリカのディズニーランドに親戚に連れて行ってもらったというのだ。僕はもちろん、初のアメリカディズニーランドだった。
 勘三郎さんは本当にいい大人が子供のようにはしゃいで、ロケは大成功だった。
夜はナパバレー・ワインを勘三郎さんと飲み干した。終始、我々に気をつかってくださって、感じのいい方で、誰もが彼に会ったらもう一度会いたくなるような魅力の持つ主だった。
 帰国してから、舞台を見に行っては楽屋でご挨拶をしにいき、その時は温かく迎え入れてくださった。
 友達なんていう関係ではない。仕事の顔見知りくらいだろうか。勘三郎さんのことはあまり知らない。しかし、彼の歌舞伎を見ていると彼の好きなアメリカディズニーランドのショーを思い出す。彼は歌舞伎という古典の世界にディズニーのエンターテイメントの精神を演出で吹き込もうとしていたのだと思われる。実際に、歌舞伎の中にミッキーが登場するような演出もあったと記憶する
 友達ではないが、あの人がいなくなったことがとても悔しい
 あれだけの人が亡くなると、死人に口無しとは良く言ったもので、本当に友達だったのか?と思われる人がテレビの画面に出て来て、涙を流すにつけ、ちょっと腹立たしく思う。
 一番、嫌な感じがしたのが昨日、深夜のテレビに勘三郎さんの本を書いた女性のジャーナリストがゲストに出ていて、「勘三郎さんに初めて取材に行った時に勘三郎さんに叱られたんです。あたしは歌舞伎のことをあまり知らないんですが、勘三郎さんのことを取材してもいいでしょうかって言ったら、何も僕のこと知らなくても、あなたがちゃんと取材してくれればいいだよって怒られました」といかにも美談のごとく話していた。
 勉強不足なんでと、最初から取材対象に言うジャーナリストってなんなんだろう?女子大生ホステスじゃあるまいし。
 本当なら、勘三郎さんの本を作る仕事が来たら、身分不相応と断るのが筋なのではないだろうか?
 この人も自称友達なのだろう
 ああ、思い出した。
 アメリカディズニーランドのロケは勘三郎さんの奥様も同行。奥様がミニーちゃんの模様の着物を着て現地で、初めて、合流した時はびっくりした。ご夫婦揃ってディズニーが大好きだった。