封印なし!田原総一郎テレビ劇場

  ジャーナリスト田原総一郎さんが、東京12チャンネルのディレクターであったことを知る人は現在少ない。ドキュメンタリーのディレクターでした.しかし.田原さんはドキュメンタリーを単にとることをしませんでした。事実に演出がのっかっていったり、演出が事実を引っ張って行ったりする、独自のドキュメントを撮っていったそうです。この手法は大島渚監督が在日問題を扱った「忘れられた皇軍」のテレビドキュメンタリーを撮りながら、映画「絞首刑」を撮っていたことに影響されているといわれてます。
 推論ですが、田原さんは元小説家志望。同世代に石原慎太郎さんの「太陽の季節」の華やかすぎる文壇デビューがあり、この才能にかなわないと、習作時代にピリオドを打ち、小説家志望をあきらめた元文学青年。この作家性(創作性)の名残りを陰影させたかったのかもしれません。
 
東京12チャンネルの作品「ドキュメンタリー青春」はいまだに語り継がれている名作であります。
菅沼亭憲さんの紹介でカルメンマキに会い、田原さんはどうしうようかと?考えていたら、カルメンは「わたしたちは」という詩を書いてくれたというのです
空話です。カルメンは三畳一間暮らし。アパートでパンを食べ、最後に海へ行く。詩の内容をまんまドキュメントにしようと決めました。
しかし、「わたしたちは」といっても実際の相手はいない。そこで、劇団員に同棲相手として頼んで、杉並のアパートに一緒に住んでもらったのです。アパートを番組で借りたというのです。
それを篠山紀信さんが撮り、雑誌「話の特集」に載せた。写真だけではおもしろくないので、寺山修二さんが作詞、田中未知さんが作曲して、練習風景を撮った。この「時には母のない子のように」が大ヒット。ソニーは「カルメンマキは妖精」「海から来た」と仕掛けます。海から来た妖精が杉並の男と住んでいてはまずいと、ソニーが男と別れてくれと頼むと、「地獄まで一緒に行く」とカルメン
NHK紅白が決まり、カルメンは田原さんの前に現れ、長い髪を切り、カーリーヘアー。結局、かつらで出場。
作品「永田洋子、その愛、その革命」
東京拘置所にいた赤軍派永田洋子ウーマンリブ田中美津で往復書簡を書かせ、番組に。

作品「焼き場の骨まで撮ってくれ」
癌になった「特別機動捜査隊」の主役高橋英二さんに死ぬまで演技させて撮った番組。


作品 「山下洋輔の弾きながら死ぬ」

早大の4号館を占拠していた民青をゲバをかけ追い出し地下へピアノを運んでライブをやる。高橋三千綱さんと連合赤軍で殺された山崎順はピアノをハコダンだ


以上のような田原総一郎さんが作ったテレビ番組がまだ、テレビ東京に眠っています。これはもう宝の山。
なんとか、これをテレビでオンエアーは無理でも、イベントで上映できないかと僕は考え、テレビ東京さんに打診しました。田原さんのテレビ東京での作品は「ドキュメンタリー青春」以外にもたくさん残っていることを確認してくださいました。しかし、このドキュメントに出ていた方、全部に許可を得なければならないのが現実。これはもう不可能であります。結局、この企画は保留になってしまいました。浅草キッド森達也さんが司会のイメージでした。