浅利慶太と田中角栄とウエストサイドストーリー

 浅利慶太さんが亡くなった。
今年、浅利慶太著「時の光の中で〜劇団四季主催者の戦後史〜」をたまたま、読んでいた。
この中で、田中角栄さんが登場するエピソードが豪快だ。
浅利慶太田中角栄。不思議な取り合わせだ
 浅利さんは演出家としてもさることなが、そのプロデューサーとしてのバイタリティには驚く。
 31歳の若きプロデューサーは1964年ジェロームロビンスと俳優ダンサーを日本に招聘し、
実に50回の



の公演を行うことに成功した。
 しかし、当時、このことは至難の技だった。
 そこで浅利氏は政治力を動かすことを考える。
 当時の大蔵大臣田中角栄の力だ。
 しかし、その伝(つて)はない。
 そこで、大学の先輩の朝日新聞政治部長だった三浦甲子二さんに相談。三浦さんは自民党デスクをしていた。三浦さんは「解った、俺が角さんに電話してやるから会いに行ってこい」
以下、浅利さんが角栄さんに会った時のやりとり。
 「これを招くことになったので、なんとか日生劇場に外貨の特別枠(今は外国人にドルで払うのは当たり前だが、当時、このことは大蔵省から厳しく規制され、一つの団体で外貨の枠というのがあってそれを持っている団体は文化界の中でも特権階級)をお認めいただけないでしょうか」
「だけどお前、そんな不良の話(ポーランドアメリカ人の少年非行グループ「ジェッツ」(ジェット団)とプエルトリコアメリカ人の少年非行グループ「シャークス」(シャーク団)が対立する物語をやって、日米関係は悪くならないか」
「それが逆なんです。こういう作品を見れば日本の観客はアメリカン人の芸術的才能に打たれるはずです。戦後アメリカ文化はこういう形で日本に入ってきていません」
「なるほど、そんなにいいものならアメリカが金を出しゃいいと思うが違うか」
「ワシントンまで行って掛け合ったきました」
「どうだった」
「駄目だったんです。不良の話には5セントも出さないといって」
以下、いろいろやりとりがあり、田中さんは「話はわかった。なんとかしよう。だけど、お前たちが
道楽する度に外貨が減ってしょうがねえんだ。ほどほどにしてくれよ」