芸人の“聖地”「ラ・ママ新人コント大会」とは何か【植竹公和インタ

ダウンタウン今田・東野和田アキ子さん ピコ太郎も出演した30年続く芸人の“聖地”「ラ・ママ新人コント大会」とは何か【植竹公和インタビュー】インタビューてれびのスキマYahooニュース 


ウッチャンナンチャン爆笑問題ネプチューンバナナマン、オードリー……、東京で活躍するお笑い芸人のほとんどがその舞台に立ち育っていったのが、コント赤信号渡辺正行が立ち上げた「ラ・ママ新人コント大会」だ。
1986年、「お笑いライブ」という概念すらなかった時代に、渋谷の音楽ライブハウスで立ち上げられ、以降、30年にわたって続けられてきた。そして10月には350回記念大会が開催される。
一体、「ラ・ママ新人コント大会」とは何なのか。
渡辺とともにこのライブを立ち上げた構成作家植竹公和氏にその歴史を伺った。
まずはウッチャンナンチャンらが活躍した草創期を振り返ってもらった。

――そもそも「ラ・ママ新人コント大会」はどのようにして始まったんですか?

植竹: コント赤信号がまだブレイクする前に、噂を聞いて彼らが出ていたストリップ劇場の道頓堀劇場に観に行ったんですよ。その頃から、渡辺正行くんと仲良くなって。僕は当時『特報ショーグルメ』(フジテレビ)っていうエンターテイメントを紹介する深夜の情報番組の作家をやっていて、その中で、映画の編集がおかしな点とかを指摘するマニアックなコーナーの司会も担当してたんです。そのコーナーでは交通違反を予防するビデオとか変なノンフィクションビデオとかも紹介してたんだけど、その一環でナベちゃん(渡辺正行)にも出てもらった。そしたら、それが終わったあとに「今度、新人をバックアップするようなライブをやりたいから協力して欲しい」っていう話をされたんです。

――その話を聞いてどう思いましたか?

植竹: その頃の若手芸人は、噺家じゃないから寄席もないし、ストリップ劇場とかキャバレーみたいな水商売のようなところとかいかがわしい場所でしか、ネタをやる機会がなかったんですよ。若者向けにネタを作ってるのに若者が見れる状況じゃなかった。当時は今のような事務所ライブのようなものもなかったですから。だから、これは面白い企画だなと思って「是非やりましょう」って即答でした。

――芸人さんたちの反応は?

植竹: 最初は、渡辺正行周辺の芸人さんたち――ピンクの電話とか4人組時代のダチョウ倶楽部(注:かつては「電撃ネットワーク」の南部虎弾が在籍)とか、多くても10組くらいでした。お客さんも20〜30人くらいでしたね。それが口コミでだんだん広がっていって、私も出してくださいってあちこちの事務所から来るようになった。それで毎回オーディションとして「ネタ見せ」を始めたんです。少し後から元フジテレビの永峰明(注:『オレたちひょうきん族』などのディレクター)が入るんですけど、僕とナベちゃんと永峰の3人でネタを見るんです。最初の頃は、昼の1〜2時から始まって、夜の11時近くまでやってましたよ。

――10時間近く!

植竹: なにがスゴイかって言ったら、“ダメ出し”じゃないわけ。彼らのネタを元に、一緒にネタを作ってやったんですよ。タダで(笑)。それぞれの個性に合わせて、こうしたらどうかなってひとつひとつ提案して。だからものすごく時間がかかるんです。たとえばウッチャンナンチャンの「対決」シリーズはご存知ですか?

――「日比谷線vs銀座線」とかですね。 

植竹: そう。それで僕が提案したのが英語の「th」や「r」とかの発音記号が対決したらどうなるかっていうコント(笑)。それを後にナンチャン(南原清隆)がショートコントのベスト5に入ってるって、『月刊カドカワ』の「ウッチャンナンチャン特集」のインタビューで言ってくれて嬉しかったですね。

――当時、ネタ見せには何組くらい参加してたんですか?

植竹: 30組くらいかなぁ。今はネタ見せに来てもらうまでである程度絞っているからみんな一定のレベルまでは達していますけど、当時は一見さんでもなんでも参加してましたからね。素人さんも来てましたよ。やっぱり危ない人もいましたね。明らかに気が狂ってるんじゃないかっていう(笑)。でも、自分ではすごい自信があるわけ。ヒドかったのはさ、ずっと聞いてたらイッセー尾形のネタなの(笑)。本人はオリジナルだって言い張ってんだけど明らかに嘘なんだよ。あとは、関西の方から来る芸人さんもいましたね。ある程度キャリアを積んで自信があったんでしょう。僕がアドバイスをしてると突然「じゃあ、お前舞台立ってみろよ!」ってキレちゃって。まぁ、すぐキレるで有名な連中だったんだけど、こっちも「冗談じゃない、帰れ!」ってケンカになっちゃった。そんなこともありましたね。

――その頃、「ラ・ママ」で目立っていたのはウッチャンナンチャンですか?

植竹: もちろん彼らも目立ってたけど、初期メンバーのスターで一番人気があったのはジャドーズ(注:メンバーの藤沢秀樹は現在「ダンス☆マン」として活動。モーニング娘。の「LOVEマシーン」の編曲も担当した)ですね。よく言われる話だけど、彼らを観てウッチャンナンチャンが「ショートコント」を始めたと。彼らは音楽もできてすごく都会的で、他の芸人もみんな憧れてましたね。角松敏生が好きだっていうんで僕が紹介して、角松敏生プロデュースで音楽デビューもしました。あと、スタイリッシュで静かな演劇風のネタをやっていたZ-BEAMも印象的でした。そのメンバーのひとりの阪田マサノブは今、名脇役としてドラマや映画で活躍してますけどね。

――映画『アウトレイジビヨンド』やドラマ『リーガル・ハイ』、『信長協奏曲』、『高校入試』などいろいろな作品で存在感のある役をされてますね。

植竹: 当時は時間もあったし、参加している芸人も今よりは少なかったから主要メンバーとはライブが終わったら必ず朝まで飲んでました。ナベちゃんも「どうにかしたいねえ」なんて言いながら、売れない劇団の飲み会みたいに(笑)。そしたら上島竜兵ダチョウ倶楽部)がさ、わりとすぐ泣いちゃうんだよ。「どうしたら売れるんですかねえ」って。だから「大丈夫、売れるから……」ってなだめるんだけど、そう返事するしかないじゃない? 困っちゃうんだよ(笑)。
ウッチャン内村光良)も今は兄貴分的になってるけど、あんな感じじゃなかったからね(笑)。引きこもりで酒も飲めなかったから。無口だしさ。今は若手を引き連れて飲みに行ってるっていうじゃない? 考えられないよ。僕はジャドーズウッチャンナンチャンを買ってたからさ、ナンチャンとジャドーズで、うちの近所のデニーズで反省会と称してよく飲んでましたよ。あの2組は仲良くてね、確か『ウッチャン・ナンチャン with SHA.LA.LA.』(日本テレビ)でもユニットを組んで、ジャドーズ寄りのコントをやってたんじゃないかな。

――ラ・ママの活動がテレビにも繋がっていたんですね。

植竹: 結局僕らの仕事っていうのはなんとかしてあげたいっていう、おっせかいであり、いわば、“親戚のおばさん”。『TVマンモス』(日本テレビ)という和田アキ子江川卓という“マンモス”な2人が司会の番組で、僕が担当していたコーナーにZ-BEAMを出したり、『11PM』の芸人紹介コーナーにウッチャンナンチャンを出したり、テレビ朝日の深夜番組で、まだ無名だった「劇団SHA・LA・LA」の2時間近くあるお芝居を「面白いから」ってプロデューサーを説得して丸々一本放送したこともありましたね。おきゃんぴーもラ・ママでおそらく、永峰さんが見て『ひょうきん族』のオープニングのナレーションに起用したんだよね。そうやってテレビとかに繋げるのが自分の役目だと思っていましたね。 (中編につづく)

――「コーラスライン」(注:観客がつまらないと思ったら「×」の札をあげ、それが一定の人数に達すると強制終了となるゴングショー形式のコーナー)は初回からあったんですか?

植竹: うーん、第1回からあったかは覚えていないけど、かなり初期からありましたよ。あれは僕が映画『コーラスライン』を観て命名したんです。そのまんまですけど(笑)。だからテーマ曲も映画の曲。このコーナーはうちのライブならではの形式だったんですけど、のちにいろんなテレビ番組やライブに真似されましたね。初期の10年間くらいは僕とナベちゃん(渡辺正行)の2人で司会をやってたんですよ。最初は『落語特選会』(TBS)で山本文郎アナウンサーと榎本滋民がやってた落語解説のパロディをやろうと思ったんだけど、マニアック過ぎて全然伝わらなくて(笑)、普通に立ってやるようになりました。

――「コーラスライン」で印象的だった芸人さんはいましたか?

植竹: それこそ危ない人たちも来ましたよ。オーディションの「ネタ見せ」の時にそんなことしなかったのに、出てきていきなり包丁を振り回したわけ。それが本物の包丁なんだよ! 客は引くし、こっちも取り押さえようにも怖くて行けない。だから収まるまで待つしかないんですよ。

――お客さんから「×」はあがらないんですか?

植竹: 怖くて「×も」出せないんだよ!(笑) あれはお客さんと僕らが一緒に作る一種のショーだから、そろそろ上げてほしいなと思ったら目で送るわけよ。ところがさすがに怖くてあげれない(苦笑)。
あとね、お年寄りもよく来ましたよ。70歳近い人で「一匹竜」って名前だったかな。わざわざ名古屋のほうから来てた。ただのおじいさんなんだよね(笑)。それで変なこと言って、転がったりして。人が良さそうな人だったんだけど、どう見てもリハビリにしか見えない(笑)。同じような年齢の人で言うと、「チャーリー東京」って人もいましたね。どんな芸をしてたかは、もはや説明不能ですけど……(笑)。
もちろん、中には、はじめから面白い人もいましたけど、そういう変わり種の人もあえて選んでましたね。

――「ネタ見せ」から「コーラスライン」に出す人の合格基準は?

植竹: 今はみんなレベルが高いからどうしても「一本ネタ」「準一本ネタ」の予備軍みたいな芸人が選ばれてますけど、僕も選んでいた90年代半ばくらいは、「コーラスライン」は「バラエティ」だと思って選んでいましたね。本格派が続かないように、時々、変化球を混ぜたりね。そういう構成でもお客さんに楽しんでもらいたかったんです。

――ネタ見せで「こいつら売れる」って確信したコンビとかはいましたか?

植竹: たくさんいたけど、ネプチューンになる前のフローレンス(注:堀内健原田泰造のコンビ)はこれは売れるって思いましたね。とんねるずみたいに、ボケとツッコミのようなマニュアル通りではなくて、なんか面白くて、アイドル性があった。ジュンカッツ(注:名倉潤が以前組んでいたコンビ)もそこそこ面白かったんだけど、それほどではなかった。でも、フローレンスの2人と名倉が組んで分かりやすくなったよね。ボケとボケだった2人にしっかりツッコむから。これで完全に売れると思った。
あとフォークダンスDE成子坂ね。天才だったなあ。爆笑問題もくすぶっている時期に「ラ・ママ」に出てて、僕は「これはイケる!」と思って、この3組は『GAHAHAキング』(テレビ朝日)のプロデューサーに推薦したんです。新人が出る番組だったから、爆笑問題なんかはキャリアがあるから覚悟を決めたんだろうね。見事10週勝ち抜きましたよ。

――バナナマンも「ラ・ママ」出身ですよね?

植竹: そうですね。まず日村(勇紀)くんが「陸上部」ってコンビでデビューしたんだけど、「陸上部」って名前は僕が付けたんですよ。確か相方が陸上部だったんで(笑)。若い子に身近で受け入れやすいと思って付けたの。日村くんは“マンガ”だから。最初から彼はなんか可笑しいわけ。それを分かりやすくツッコむ、ネタを書ける設楽(統)くんと組んで良かった。非常にホッとするグループですよね。性格もいいし。お笑いは、性格の悪いヤツは売れないよね。気遣いとか気配りとか、そういうのができないと相手を笑わせる良いネタをやれないもんね。

――350回記念大会には浅草キッドも出演します。彼らも初期の「ラ・ママ」に出ていたそうですがどんなことをやっていたんですか?

植竹: 当時、DCブランド全盛期なんですよ。そういう時代です。「ラ・ママ」も話題になってきて、若者たちのオシャレなスポットになってきたわけ。ところが、ストリップ劇場で彼らは“たけしイズム”を注入されてきたんで、まあ“野武士”ですよ。だから、そんなオシャレな感じをぶち壊してやろうって意気込みで来てるわけです。2人ともオムツかなんか履いて登場してきて、ダッチワイフと絡むわけだよ。完全にストリップ芸でしょ(笑)。そんなネタ、女の子はイヤでしょう? 当時からお客さんは女の子が中心だったから、もうお客さんは引くわけよ! ただ、俺とナベだけは大笑い(笑)。「これはスゴイ」「こういうのが貴重だ!」って。それがなんか自信になったみたいだね。お客さんにはウケなかったけど、僕らにウケたっていうのが。ただ僕もバカでさ、それを見て、彼らの根っこは知的な人間だと思ったの。彼らが発言したり書いたものを見て、こいつらはニュースとか行けるぞって思って、日テレで深夜、30分くらいの生放送で海外ネタのニュース番組があったんだけど、その番組のレギュラーで起用したの。まだ若手も若手の時期だよ、どうかしてるでしょ?(笑) で、そのときに当時よくテレビに出ていた軍事評論家と鼎談させたの。

――ああ、あの独特のヘアスタイルの……?

植竹: そうです! 彼と、ロシアの軍事問題の話をさせようと思って、ちゃんと台本も作ったんだよ。そしたら玉ちゃん(玉袋筋太郎)がね、「もしかしたらあっち系(オカマ)の人じゃないですか」って。「いや違います」「絶対そうだと思います」って延々やってるわけよ。そしたら終わった後、部長に呼び出されて、「一体誰が出したんだ」と。「私です……」って(笑)。だけど長い目で見たら間違ってなかったんだよ!

――そうですよね。今の活躍の場はまさにそういうところですもんね。

植竹:早すぎたんだよ(笑)。
(後編につづく)

――「ラ・ママ新人コント大会」は今年で30年続いているわけですけど、最初はどれくらい続けようみたいな目標はあったんですか?

植竹: それはないです。とにかく定期的に毎月、続けていこうって。30年っていうのは考えてなかったですね。振り返ったら「え、もう30年? あれ?」って感じ。もうそんな歳をとったのかなって。始めたころが30歳くらいでしょ。若い人と喋れるし、こっちのボケ防止にもいいですよ(笑)。

――続けてきたモチベーションはなんだったんですか?

植竹:惰性じゃないかな(笑)。つまりさ、やめるわけには行かなくなっちゃったんだよ。僕は(開催する)金曜日に仕事が入っちゃって参加できない時期もあったんだけどね。
ナベちゃん(渡辺正行)がこのライブを始めたきっかけのひとつには自分のMC力を高めるっていうのがあったんじゃないかな。どっちかっていうとコント赤信号ってもともとは“ネタの人”だったじゃないですか。そうじゃない部分を舞台で若い人たちと絡んでいく中で鍛えたいっていう思いがあったと思います。今もそういう動機がどこかにあるんじゃないかと思いますよ。実は僕もそうなんですよ。僕は作家だけど、今一番旬な芸人さんとどこまで絡めるか。そういうことをやって初めて、その人たちを使った台本が書けるんじゃないかって勝手に思ってるところがあって。自分たちにとっても鍛え上げられるひとつのテストの場なんですよ。

――初回はお客さんが20〜30人くらいだったと仰っていましたが、それが満員になったのはいつ頃ですか?

植竹:1年かからなかったと思いますよ。順調に口コミで増えていきましたね。ネットもないし、そんなに宣伝もしてなかったですから。業界でもすぐに広まって、各局のスタッフが新しい人材を探しに見に来てました。新宿ではなくて渋谷っていうのも良かったんじゃないですかね。歌舞伎町だとやっぱり怖くて女子高生たちはなかなか来れないじゃないですか。一般紙とかにも取り上げられたり、『トゥナイト』(テレビ朝日)のようなテレビ番組にも「若者たちの〜」みたいな感じで取り上げてもらいましたね。

――ラ・ママは中央に大きな柱があったりして、決してお笑いライブの会場としては見やすい会場ではないと思いますが、そのあたりはどのように感じていましたか?

植竹: 確かに見にくいよね。でも、あそこって、音楽のライブ会場としてミスチルMr.Children)とか結構有名なバンドをたくさん輩出してるんですよね。お笑いのスペースとは違う、音楽のスペースでやっているっていうのが、若者たちの食いつきも良かったんじゃないかな。あそこにいって、みんなで膝を抱えて見る。そういうのが、オシャレだったんじゃないですかね。ラ・ママの社長もよくあの会場をお笑いに開放してくれたと思いますよ。なんでやらせてくれたのかは分からないけど(笑)。
中高生とかいまだに多いですから。女の子っていうのは熱がスゴイよね。“出待ち”とかは、(東京のお笑いでは)ラ・ママからじゃないですか。「芸人さん」って「さん」をつけるようになったのは、出待ちの女の子が言い出したんじゃないかな。「芸人さん」ってあえて呼ぶ。丁寧語でもあるんだけど、「私は向こう側の芸人さんと“近い”」っていう意識がなんとなくあるような気がしますね。

――女性客が多いとやるネタに影響が出ますか?

植竹: やっぱり、下ネタはお客さんが引いちゃうことが多いね。大川興業とかWAHAHA本舗系が出ると危ない(笑)。

――下ネタをやるグループはネタ見せの段階で落としちゃうんですか?

植竹: でも、ナベちゃんは好きなのよ(笑)。ストリップ劇場出身だから、同士意識があるんだろうね。下ネタのグループが出たときに一番笑うよね、あの人。「お前らバカなことやってるね」って嬉しそうに。

――もう続けられないというような存続の危機みたいな時期はありましたか。

植竹: そこまではないかな。明らかにお客さんが減ってきた時期もありましたけどね。でも最近はまた上がってきた。

――採算は取れているんですか?

植竹:もともと採算は取れてないです(笑)。僕ら営利目的でやってないから。

――90年代以降、吉本の劇場が東京にできたり、他の事務所もライブを始めたりしましたが、そういったことで影響はありましたか?

植竹: いや、それはないですね。うちは全方位外交だから。どんな事務所の芸人も平等に受け入れる。そういうのは他にないから全然影響ないんですよ。それはうちの強みですね。

――芸人にとっても「ラ・ママ」は特別だったんですかね?

植竹: そうだと思いますよ。100回とか200回とかの記念大会にはダウンタウン今田・東野とかも出てくれましたね。なぜかスペシャルゲストとして和田アキ子さんが出たり。爆笑問題ウッチャンナンチャンとか、ダチョウ倶楽部とか、そういうクラスの人たちにも必ずネタをやってもらいます。今はなかなか見れないでしょ。その時も彼らは緊張してるもんね。ウンナンなんかも舞台袖でエズいてましたからね。“場”の持つ空気に押しつぶされそうになるんでしょうね。それくらいレベルがスゴかったんだよね。

――今は『M-1グランプリ』(テレビ朝日)や『キングオブコント』(TBS)などの大きなコンテストがありますが、それで芸人がやるネタに変化はありましたか?

植竹: うしろシティとかアルコ&ピース……、たくさんいますけど、とにかくネタのレベルが高い。ある時期までは、作家が書けそうなネタもあったわけ。お手伝いできていた。だけど、今はもうできないもんね。本人じゃないと書けないネタだから。全体的に偏差値がすごく高い。面白い人たちを子供の頃からテレビで見てきて勉強してきたんだろうね。もはやネタを一緒に作ってあげるっていうのは難しいですよね、別の角度のアドバイスならできるけど。今の芸人さんは、作家的センスが高い。「勉強になります」って感じ(笑)。
ライブが終わったら、恒例なんですけど、そのまま会場で「打ち上げ」と称して反省会をするんです。ビールで乾杯した後、一人ひとり自己反省してもらう。それで僕らがアドバイスするんです。僕とナベちゃんの意見が食い違うときもあるんだけどね。ナベちゃんはああ見えてすごく理詰めでアドバイスするんですよ。 

――アドバイスするときに気をつけていることってありますか?

植竹: テレビっていうのはおもしろいもんで、ライブでネタがウケなくてもテレビに出て売れるヤツっているんだよね。で、テレビに出てからライブに出るとウケるようになる。自信がつくんだろうね。そういうタイプの人もいる。だからダメ出しするにしても、完膚なきまでにしちゃダメで、余白を与えてやらないと、ダメですね。

――芸人にとって「ラ・ママ新人コント大会」はどんな存在だと思いますか。

植竹:彼らの帰ってくる場所なんだよね、おそらく。安心する場所。そういうところがあるのはいいんじゃないですかね。渋谷駅から坂を登ってくるところがいいんだよね。坂の頂上にラ・ママがある。「今日はいけるかな?」とか色々考えながら登ってくる。そういう助走がいい。芸人の“聖地”だと思いますよ