星野ジャパンにおける司馬遼太郎 史観

 星野ジャパンのバッシングの嵐。
女子ソフトボールチームの強さに学べと。
なでしこジャパンにも学べと。
 市民たちやマスコミの多くは「星野ジャパン<女子チーム」
ということらしい。
 僕も女子の活躍には感激し、よくがんばったと拍手を送った。
しかし、敗者ながら、星野ジャパンにも拍手を送り、感激した。
 星野ジャパンを送り出した時の論調で、ほとんど、否定的に見ているマスコミは少なかったように思われる。
 戦地に旅立つ兵隊さんを国民が千人針を縫い(いささかオーバーに言うと)旗を振って送り出したのに、負傷をし、負けて帰って来たら、戦犯裁判を国民開き、多いに騒ぐ。マッハのスピードで一億総スポーツ評論家に変身。 
 なんだか、変だぞ、これ。
 星野ジャパンバッシングを見て、司馬遼太郎さんが生きていたら、何を思うのかと、思った。
 日比谷焼き討ち事件に関する司馬史観を思い出す。
日比谷焼き討ち事件とWikipediaによると、1905年のポーツマス条約によってロシアは樺太全島および遼東半島の日本への移譲を認め、実質的に日露戦争は日本の勝利に終わった。しかし、同条約では戦勝国であるはずの日本に対するロシアの賠償金支払い義務はなかった為、日清戦争と比較にならないほど多くの犠牲者や膨大な戦費(対外債務も含む)を支出したにも関わらず、直接的な賠償金が得られなかった。そのため、世論の非難(日本内部)が高まり、暴徒と化した民衆によって内務大臣官邸、御用新聞と目されていた国民新聞社、交番などが焼き討ちされる事件が起こった。なお、同事件では戒厳令も敷かれた。
 星野ジャパンは負け、日露戦争は日本は勝ったという違いがあるが、同じような国民の騒ぎ方だと思う。
 司馬さんは
 「調子狂いは、ここから始まった。大衆の叫びは、平和の値段が安すぎるというものであった。」「私は、この大会と暴動こそ、むこう四十年の魔の季節への出発点ではなかったかと考えている。この大群衆の熱気が多量に(たとえば参謀本部に)蓄電されて、以後の国家的盲動のエネルギーになったように思えてならない。」「日本の歴史の中で、一種の国家的テ−マで群集が成立したのは、この時が初めてです。この群集こそが日本を誤らせたのではないかと私は思っています。」
 日本市民とは一体なんなのか?ますます、混迷を増すばかりである。
 星野ジャパンを叩く前に、マラソンレース直前に男女二名のリタイアを出した陸連の責任は?バレーボール協会は?サッカー協会は?柔道は?卓球は????
もう、キリがない。
 ナベツネさんが「じゃ星野じゃなくて誰がいたんだ!」とおっしゃった。僕もそう思う。
  落ち目になった恋人に「地獄の底まであなたとついて行くわ」なんてことを言ったら、「何、ボケたこと言ってるんだ」と、一喝される世の中みたいだ(笑)
 でも、自分は星野さんについて行きます ということでビリーボーン楽団で「星を求めて」