人間晩年図鑑 2000-03年
青江三奈は「ナイト&デイ」というクラブで歌っていた。
ディレクターがスカウト。
川内康範の当時『週刊新潮』の連載小説「恍惚」の主人公青江三奈からとった芸名。フランク永井がラジオで褒めていた。
「恍惚のブルース」作詩は川内康範[1][2][3]、作曲は浜口庫之助、編曲は寺岡真三 の翌月には森進一が「女のためいき」(吉川静夫作詞、猪俣公章作曲)でデビュー。「ため息路線」と言われた
トラックドライバー大貫久男が路肩のガードレールの支柱上に風呂敷包みが載せてあったのを見て、
空の荷台に放り込んだ。古新聞の束と思っていた。42歳錦糸町住まい。娘の子供会に協力している彼は一キロ18円と高値を呼んでいた古新聞を売って寄付しようと思っていた。
一千万円の束が10個。一億あり、警察へ届けた。
政治資金、投資グループの怪しげな金?落とし主が名乗り出ず、取得物は6ヶ月後、拾得者の所有に期することになっていた。
早朝ジョギング姿で警察署へ出向き、一億円の小切手をもらった。
大貫の月収25万。年末宝くじは3000万円の時代。
脅迫状が来るので、一時、ガードマンを雇い、防弾ベストをきた。
一時所得とみなされ、税金三千400万を一度に納め、墨田区のマンション3690万円を現金で払い、残る三千万円で家族五人の保険を一括前払い。
月5000円で区営コートの会員になり、シニアクラスの強豪。
2000年62歳で心筋梗塞で死亡。
2000年になると現金拾得額は増加して年間100億円。
ビリーワイルダーは1934年米国に渡る。
その後、全て共同脚本だったのは英語が苦手だったからだ。
サンセット大通り、グロリアスワソン52歳。モンゴメリークリフトに相手役をオファーしたが、
年上の女性に世話になった経験があったので断り、ウイリアム・ホールデンを起用した。
ノーマとマックスの住む家は石油王ジャンポールゲティ前夫人の大邸宅を借りた。アメリカ人の成功の象徴プールがなかったので、庭にプールを作った。
この映画の冒頭シーンは初号試写では遺体安置所で同じ夜に死んだ遺体たちが自分の死に方を雑談していた。黒人の死体が「ドジャースは勝ったか?」「死んだのは朝刊の出る前だったのでわからない」と、ホールデンは答えた
しかし、客は大笑いするばかりで安置所のシーンはカットした。
「サンセット大通り」は脚本賞を得たが、作品、監督賞は「イヴの総て」ブレイク直前のマリリンモンローが出ていた
ワイルダーは映画「逢い引き」の男女の場所は友人のアパートにヒントを得て、15年後、「アパートの鍵貸します」を作った スクリューボールコメディ
1972年 ビリーワイルダー監督の「お熱い夜をあなたに」(Avanti!)
作曲Carlo Rustichelli,
89年ヒノデワシという文具メーカーがナンシーを尋ね、版画用の消しゴムを作りたいと、「はんけしくん」が売り出し、売り上げの10%をしめる主力商品となった。90年代以降はたまの外出で2、30メートル歩くごとに電信柱につかまって休むほど、体重が増えていた。
自動車の免許が取りたくて3年かけて取得。すぐにドイツ車のゴルフを買い、箱根へいく。
ナンシー関が死んだ時、司馬遼太郎ファンもこんか感じだったのだろうなあと、宮部みゆき。
青森の葬式にその日の羽田発青森行きは喪服姿の編集者と関係者でいっぱいだった。
チャールズブロンソンはB29の射撃手として、東京大空襲に参加。
丹頂はCMで当たり、社名を「マンダム」に変更。
2008ー11年 3月11日
祝十郎「憎むな殺すな許しましょう」
昭和天皇の戦争責任があるといい右翼に狙われ、稲川会にボディーガードしてもらう。稲川会の社歌をお礼に作った
「プラトニックラブ」は170万部売れた
「ライ麦畑でつかまえて」6500万部