女流作家はズルいと思ってましたが

 女性作家の恋愛小説は最近、ちょっとズルくないかあと、思います。
 今、女性優先の恋愛観だけが男性のそれより、圧倒的に正しいものとして幅を利かせているからです。
  お叱りを受けるかもしれませんが、フェミニズムの台頭とともに、<男の考える恋愛感>は蔑まされる存在になってきていることは明らかです。
 それに引き換え、女性作家の恋愛小説は自由度をますばかりで、男を買い育てる岩井志麻子さんの過激な小説まで出現するまでに、その引き出しは肥大化する一方です。(岩井さんの小説はそれ以外の要素で読ませてくれますので、認めますが)同じように自由に、男性作家が書いたら、セクハラとして、大問題になること間違いなしです。1960年代に吉行淳之介が書いたような娼婦との恋愛小説なんて、いにしえの話です。
 何故か、男性恋愛小説では渡辺淳一さんだけが気を吐いてます。一人勝ちです。渡辺さんだけは不可侵条約でもあるかのように、堂々と男性論理で恋愛小説を書かれています。勇ましくも思えます。
 恋愛小説と同じように、テレビドラマも、とうに、女性中心で描かれ、女性の恋愛観が中心に描かれているのが、ほとんどです。
 僕が敬愛する脚本家中園ミホさんが後輩の脚本家岡田恵和さんの書く恋愛ドラマの女に対して、男の子が幻想を女性に抱いているファンタジーだとおっしゃっていました。
 岡田恵和さんのドラマは、僕は好きなドラマなので、男は女性に幻想を抱いてドラマを書きたいというは、僕にもわかるような気がします。
 ですから、世の中自体が、恋愛小説の女性上位優位に極端に傾いているようで、バランスが悪いような気がしていました。
 ちょっと、どれもこれも女性作家の恋愛小説を決めつけて、触らないようにしてたところがありました。
 ところが、直木賞作家角田光代さんの作品のひとつ「だれかのいとしいひと」を読んだら、もう、「すいませんでした」の一言でした
 女流作家の書くこういう恋愛小説もあるんだ。
 女性作家恋愛小説アレルギーがすっと洗い流されました。

 その一編。
「だれかのいとしい人」

 幼い頃の記憶に父親に連れられて外出し、毎回、父とある女の人の家に行った記憶。その女の人は自分によくしてくれた
 そして、大人になった主人公は今度は姉の女の子をあずかり、彼とデートに。彼が自分から離れて行きかけていく。その間に、はさまれて、二人を結び付けているのが、幼い自分と重なる姉の娘だったり。

もう一編「転校生の会」。
ちょっとSFみたいな話なんですが、ある町を訪れた時の表現で「・・・まるで昨日までなかったのに突然、町ができあがったみたいだ」
この比喩、まるで、アメリカのロッドサーリングみたいな表現で僕好みであります

そして、人生の人の出会いをこんなように例える一節
「同じバスに乗り合わせた人で、でもほら、目的地がみんな違うから、おりる場所はばらばらで。それでね、同じバスに乗っていて、隣同士に座って・・・
それはきっと楽しいことなんだと思うんです。」
おいおい、角田さんっていくつなんだ、笠智衆か、この悟り方。
 
文章がやわらかい。平易な文章であえて書いている。でも、うまい。うまい。
 この人、角田(カクタ)と読むらしいが、カクタという名字の語感と作品にイメージの誤差がある。本当にやわらかい作品だ
いいものと巡り会いました