饒舌な小説と音楽

谷崎潤一郎さんの「痴人の愛」をあらためて読んでいますが、これが山田詠美さんの「ひざまずいて足をお舐め (新潮文庫)」と相通じるものがあり。
時代も違い、方や谷崎さんはM的、山田さんはS的な主人公を延々と
描写する。これはもう、ストーリー展開がどうのこうのという前に、その
文章の饒舌さに、屈服してしまいます。
これも間違いなく文才というものだと思います。
こういうネタで、よくぞ、まあ、ここまで書き続けられる才能。
 饒舌といえば、巷のラッパーというものを考えてみたところ、彼らもとても饒舌です
 80年代以前の若者は歌の中にこんなに情報をつぎ込まなかった。
 普段、話をしていているのと見ていて、最近の若者はそんなに饒舌とは思えない。しかし、ひとたび、ラップという手段(武器?)を借りると、よく「しゃべる?しゃべる?」。結構、胸の中に溜まってるのだと驚いてしまいます。もっと、普段から、徐々に吐き出していけばいいのに。それができないから「キレる」ということがあるのか?
 80年代以前の若者は喫茶店や居酒屋で儀式のように、普段からよ〜く議論していました
 そして、フォークというようなメロに乗せて、それでも言い尽くせない言い分を歌っていました。
 厳密にはクインシーンジョーンズがビッグバンドジャズをやっていた昔から、すでにラップの原型はあったことはクインシーの自叙伝に書かれています。もちろんラップという名称は存在していませんでしたが。ちなみにクインシーの娘の射殺された旦那の2パックはラッパー。彼ともクインシーはコラボしています。つくづく、クインシーは柔軟な大人だと思います。
 彼のようなおじいさんになりたいと最近よく考えています。
 しかし、ラッパーって歌詞が長いから、歳を取ったら、三木のり平さんが舞台のあっちこっちに台詞を書いてあったように、ボケて歌詞を覚えきれなくて、カンペ見てラップするんでしょうね
 それを考えるとラップって、若者のうちしかなかなか、できない音楽なのでしょうか?