古今亭志ん朝とモースさん

僕が前回、ブログで、池袋演芸場古今亭志ん朝さんを寝転んでみた過去があり、今考えると、不世出の名人を寝転んでみた事を恥じたのですが。
実は今、僕の歴史好きの同級生中島くんと大森貝塚の発見者でしか日本の教科書では認知されてないエドワード・S・モース著『日本その日その日』をお互い読みあっていて、連夜、その報告会をしているのですが、その中に寝転んで落語を日本人が見ているという記録が残っていたのでした。明治の頃の描写ですが、落語というのは本来、そのように相当、リラックスした市民の娯楽だったことがわかります。
しかしながら、古今亭志ん朝さんを寝転んだ自分をいまだに、申し訳ないと思っているのですが。
この『日本その日その日』を読んでいると、そこに生きている日本人がいかに、まじめで愛すべき人々だったか、モースという外国人の目によって語れています。
安倍晋三さんの本ではありませんが、「美しい日本・・・」とは何か?というのをつまり、日本人自ら、声高に叫ばなくても、青い目の外国人の客観的な評価を通して、再認識されるのがおもしろいのです。
履修問題が連日、騒がせていますが、世界史のみが、必修であるという現状こそが、すでに、偏っているのではないでしょうか?先日、世界史と日本史の年表を八重洲ブックセンターまで買いに行ってきました。この両方がうまいこと、ミックスされた年表がほとんどない、世界史と日本史は別々の年表なのです。
日本でこの事件が起きたとき、世界では何が起こっていたのか?このように照らし合わせていかないと、認識しにくい、覚えにくいのではないでしょうか?
 大森貝塚の発見者は大変な発見だったかもしれません。しかし、生きている日本史を知るのには、エドワード・S・モースが書いた『日本その日その日』を、読む方がどれだけ、当時の生きた市民を知ることができて、大切なことか。この一節をむしろ、教科書に載せてほしいのです。
 エドワード・S・モースが見た当時の湘南のロコ?たち、相撲を観戦する人々、歌を揃って歌いながら労働する労働者など、本人のイラストを添えながら、軽妙な現代風なエッセイに仕上がっているのです。
 ちなみに、エドワード・S・モースが来日している1877年は西郷隆盛が自決し、チャイコフスキーが「白鳥の湖」の初演をした年です。
 エドワード・S・モース
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エドワード・S・モースエドワード・シルベスター・モース(Edward Sylvester Morse,1838年6月18日 - 1925年12月20日、モールスと表記されることもある)は、明治初期の東京大学で生物学を講じたお雇い外国人である。大森貝塚(東京都大田区・品川区)を発見したことで知られる。

アメリカ合衆国メイン州ポートランドの生まれ。ハーヴァード大学ではルイ・アガシーに師事し動物学を学んだ。貝類の研究が専門であった。腕足類の研究のため来日した際、1877年〜1880年にかけて東京大学で生物学を教える。ダーウィンの進化論を初めて日本に紹介したのが彼である。

来日し横浜から東京に向かう汽車の窓から大森貝塚を発見し、日本における科学的な考古学研究の第1歩を記した。また、日本の陶磁器や民具に関心を抱き、1882年には収集のため再来日をしている。ボストン市に持ち帰ったものが「モースコレクション」として、当時の生活を知る貴重な資料になっている。(ボストン美術館に陶磁器、セイラム市のピーボディ博物館(現・ピーボディ・エセックス博物館)に民具が収蔵されている。)

晩年、関東大震災で東大図書館の蔵書が全焼したことを知ると、1万冊を超える蔵書を寄贈した。

なお、大森貝塚のある大田区と、モースが館長を務めたピーボディ博物館のあるセーラム市とは姉妹都市を結んでいる。(大田区役所公式サイトより)また神奈川県の江ノ島に東洋初の海洋生物の隣地研究のための臨海実験所を創設した功績を讃えて、江ノ島にモースの碑がある。だが、実際にモースが大森貝塚を発見したのは現在のJR大井町駅付近であり、大田区ではなかった。