「岡本太郎さんに青山通りを行進させた日」


 日本テレビ岡本太郎明日の神話プロジェクト」ということでもりあがっているようだが、実は、半世紀に今回のを入れると、岡本太郎ブームは四回!
 大阪万博の第一次ブーム、「芸術は爆発だ!」の岡本太郎さんのフレーズは大ヒットした1981年の第二次ブーム。岡本太郎さんが描いた顔のグラスがウイスキーのおまけになったり。「グラスの底に顔があっても良いじゃないか」と。
 1986年に第3次岡本太郎バラエティ出演ブームがあったのを覚えているであろうか!
 その第3次岡本太郎ブームの仕掛けたのが、1986年に僕がチーフ構成していた日本テレビ「鶴ちゃんのテレもんじゃ」(日曜の昼12時から)だった。他作家に岩立良作さん、そーたに君、大井紀子プロデューサー、神蔵くんがAD。
 この岡本太郎さんを引っ張り出した張本人は当時、チーフディレクターだった現日本テレビチーフプロデユーサーの吉川圭三さんだった。
吉川さんと僕は今は当たり前になった文化人をこちらのバラエティの舞台に引き摺り下ろす(笑)失礼、下界に下りていただくのを生きがいにしていた。
当時、世界の岡本太郎さんにレギュラーになっていただいた。とにかく、なんでもいいから、オープニングにスタジオに登場して、一声雄たけびを上げてもらう。一体、どんな言葉を発するか?毎週、芸術の言霊を目の前で見られた。いろんな素人が登場するゴングショーみたいなコーナーに岡本さんなりの感想を
言っていただいた。予測不可能の岡本さんの言葉に毎回、片岡鶴太郎さんが、床を転げ回ってのリアクション。この番組がきっかけで
バラドルといわれる井森美幸森口博子くんらが再生していった。
 そして、これまた、贅沢なレギュラーが
美輪明宏さんだった。この人を担ぎ出した時は、「三島由紀夫で大学の卒論」を書いた僕は三島の恋人美輪さんをこんな場所にいさせていいのだろうか?と、逡巡したものだ。
 美輪さんは「ヨイトマケの歌」の日本のシンガーソングライター第一号であり、僕にとって、三島さんとの日本文芸史上の人物として、一目置いていたからだ。
 当時から、美輪さんは素晴らしい人生のアドバイスを視聴者に放っていた。
 岡本太郎美輪明宏が出る番組なんて、教育テレビとしか思えないでしょう。
 東京都心の岡本太郎さんの御自宅にもお邪魔した。実物大の岡本太郎人形から、岡本太郎作のオブジェが所狭しと置いてあり、足の踏み場もないまるで、骨董屋さんのようだった。その造形物に僕は平気で腰掛けたり、なぜたり。秘書・養女として一挙一動を見守ってきた 岡本敏子さんはニコニコしてそれを
見ておられた。
 しかし、太郎さんと敏子さんってよく顔が似ておられた。
 極めつけのことがあった。
 岡本太郎さんに指揮をして先導してもらい
、子供たちの鼓笛隊と青山通り
246通り)をパレードしていただいのだ。
 確か、岡本太郎さんのハッポースチロール間抜けな張りぼて人形も一緒に行進した。
 なんのためにそんなことをしていただいのか?まったく記憶にない(笑)僕も吉川さんも脳髄がちょっとイってしまっていたのだろうか?(笑)若いってことは恐ろしさ知らない(笑)
 そんなことをよく、岡本太郎さんは引き受けくださったと思う。なんたって世界の岡本太郎だ!
 天然のように見えた岡本さんだったが、実は全て御了解で、ちゃんと納得してやってくださったいたのだと僕はいまだに思っている
。そのことが「おもしろい」と思えば、それ
を素直に選択するのだ。
 今でこそ、文化人と名のつく方がテレビの宣伝力を計算して近づいてくる時代だが、当時はそんなことはなかった。
 今考えても、岡本太郎美輪明宏さんのツーショットバラエティ番組は日本橋三越の二匹の獅子の置物のように凄すぎる存在感だ。
そして、偉大なる二人の芸術の神に挟まれて、その偉大さをまったく理解せず、岡本太郎さんに「このオヤジ!」と言った井森美幸もこれまた偉大なるバラドルの誕生だった!