池江璃花子選手といい、マスターズの松山選手といい 人は他人事なのに、なぜ、こんなに喜びを共有できるのであろうか?
スポーツそのものの、魅力はあるのだが、
それはレースにおいて、挑戦している行程が、人前に全て晒されていることもあるではないだろうか?
例えば、ある営業マンが地味だが、30回の営業(レース?)を繰り返した末、仕事が成立する一部始終をコンパクトに見せられたらそれはそれで他人事ながら静かな感動をするような気がする。
池江璃花子選手といい、マスターズの松山選手といい 人は他人事なのに、なぜ、こんなに喜びを共有できるのであろうか?
スポーツそのものの、魅力はあるのだが、
それはレースにおいて、挑戦している行程が、人前に全て晒されていることもあるではないだろうか?
例えば、ある営業マンが地味だが、30回の営業(レース?)を繰り返した末、仕事が成立する一部始終をコンパクトに見せられたらそれはそれで他人事ながら静かな感動をするような気がする。
コロナで毎日、ニュースで、渋谷のスクランブル交差点の映像が
映し出される
信号待ちが辛抱強くない。
仕方がないのだが、あれほど空虚な時間はない。
大昔、夕焼けにゃんにゃんの企画で交差点で信号待ちしている一人一人を
競走馬に見立て、渡りきるまでをレースにして占う企画をやったことがあるが、
自分の経験を元に考えたものだ。
今はあまり聞かなくなったが、「通りゃんせ」の信号機のBGMのメロディがマイナーで嫌いだった。(歌詞の内容もひっかかる)