作家が食べ物を語る時

昔は何故、作家が通った店と言うのが一冊の本になるくらい重宝されたのだろうか?全員が舌が肥えているという裏付けがあるわけではまったくない。
しかし、つい、昔の作家が書いた食べ物に関する本を読んでしまう。文章に食べ物を伝える芸があったからかもしれない。旨さが伝わってくる文章力というのか?読者はその文章にだまされているのかもしれないが、食欲を掻き立てられ、擬似的に読みながら食べることを体験できた。片や、今の作家や文化人と称されるひとの食べ物の本や文章の多くはただの自慢話だ。
脚本家の山田太一さんの随筆には自分は食べ物のことを書かないと書いてあった。安易にそういうことを書くのは品がないと。山田さんの世代の多くが食べるのも、ままならない世代だったこともあるかもしれない。
自戒を込めて、この品がないという言葉にいたく同調する気持ちがある
食べ物の話はしたいが、これが絶品だとか、日本中食べ歩いても こんな・・・とか偉そうに語る人にはなりたくないと思います