中村勘三郎さんの紙吹雪

  明日、仕事でどうしても、中村勘三郎さんを送る会に行けない。1979年三遊亭円生師匠の送る会の時には何しろ、円生師匠のご自宅にもおじゃまする入れ込みようだったから、24歳にもなっているのに正装として学生服(事情があって)を着て、見送った。花輪の前で撮った写真も残っている。それ以来、送りたい芸人さんの方だけにとても残念だ。

<12/9の日経新聞野田秀樹氏の中村勘三郎さんへの追悼文>を抜粋してみました


中村勘三郎の棺の中に、来春、柿(こけら)落としを迎える新しい歌舞伎座の舞台のその切れ端が入れられた。彼の亡骸の足が、まだ誰も踏んだことのない、真新しい舞台を踏んでいる。彼の亡骸の周りは、彼にそんな恩返しをしてあげたくて仕方のない人間であふれている。」

「 それはとりもなおさず、彼がいままで、どれほど周りの人間に優しい男であったかという証でもある。歌舞伎座の大道具、裏方の人々、そして数えきれないお弟子さんたちが、彼の亡骸に、縋(すが)りつき泣き狂ったようにいつまでも離れられずにいる。その姿は、肉親を失って悲しみに暮れている人々の姿に似ている。」


「君は紋付き袴に着替えさせられた。六代目尾上菊五郎の着物をかけられて、そして、胸に短刀が置かれた。君は君ではなく、亡骸になった。」



「僕が君と初めて出会ったのは、渋谷の百軒店(ひゃっけんだな)という坂道だ。僕はその頃やっていた小劇場の劇団の仲間と坂道の上から下りてきた。君は歌舞伎の仲間と坂道の下から上がってきた。まるで一触即発のヤクザ映画の出会いのように緊張が走った。だが「同い年生まれだよね」とどちらからともなく話が始まった。一目で気が合うのがわかった。二十代だった。その夜は、そのまますれ違っただけだった。」


「あれから三十年近く、君と芝居のことを語り続けてきた。君がいつも熱く夢を語り、そのあまりの熱さに、僕が少し覚めたことを言うと、それが君には嬉しいらしく「また、意地悪な目してモノ見るねー」と喜んでくれた。僕は君のまっすぐさが好きで、君は僕の意地悪さが好きだった。」


 「そして君は時に、真夜中であろうが電話をかけてきて「アイデアがあるんだけど、あれ、あの、来年の夏とかあいてる?」あれほど、人を労(いた)わる君が、そういう時はこちらのスケジュールとか体調とかお構いなしだった。そして、いつも主語と目的語が抜けているので、電話が切れたあと、今の話、結局なんのことだったんだ?ということが多かった。そして、残るのは、君の芝居への情熱ばかりだった。」以上が僕が抜粋したものです

 また、今回出棺時に、大道具さんが勘三郎さんの棺の上から紙吹雪を巻いたエピソードを先輩の方から聞いた。紙吹雪は「天使」の型だった

そうだ。わざわざ、そういう型に切るというのは異例中の異例のことだと思う。楽屋で隅々の人に芝居が終わった後にお礼の声をかける勘三郎さんを何度も見た事がある。そんなに気を使っていると命を削ってしまうと傍で思っていた 本当に早く逝ってしまったなんて いまだに信じられない 
 「十八代目中村勘三郎襲名披露興行」の時のNY ブルックリン橋をバックにしたポスターが僕はとても好きだ