「山田太一さんならどうする?」

脚本家山田太一さんから、僕の番組の件でご丁寧にお葉書をいただいた。怖いほど勢いがある筆跡で、「ああ、この人はすごい情熱家なのだ」と陳腐な形容しか浮かばない自分が情けない。作家として情けない。
僕はプロの脚本家ではないが、この方のご発言、御本を永年、追いかけて、「ワイルダーならどうする?―ビリー・ワイルダーキャメロン・クロウの対話」ではないが、「山田太一さんならどうする?」と問いかけるようにしている。しかし、そんなにまじめに仕事を考えているのか?というと決してそんなことはなく、食うためなら、多少の仕事はする。しかし、山田太一さんの物の見方はいつも気になり、この人に恥ずかしくない仕事したいと思ったり、時々、思うのだ。
作家の一挙手一投足が美しかった時代がある。文学者という言葉がフツーにあった時代。
昭和50年代前半までだろうか?安岡章太郎さんらの「第三の新人」らが最後であろうか?彼らをドキドキ、注目して、その佇まいが格好良くてたまらなかった。僕が高校生の頃までか?
 ちょうど、その頃、三島由紀夫さん、川端康成さんが自殺なさり、それ以後、「作家の自殺」という事件が途切れた。作家の生き様と作品が乖離しても、読者は気にしない時代になった。それとも、作家がそういう、面倒なことを放棄したのか?
今、文学者という言葉が生きているとしたら、山田太一さんが一番、文学者の匂いを持っている方だと思う。山田さんほど、自己批判をなさる作家を知らない。あれだけのテレビ界で地位を築きながら常に「偉そうなことを言ってしまった」と自戒することばかり。
今日、電話で山田太一さんにお礼を兼ねて、話をさせていただいた。山田さんは「自分みたいなものが・・・・」という物言い。
この人がこのような低姿勢でいる以上、僕みたいなゴミ作家は世間で頭を垂れて仕事するしかないのかと、いささか、作家として、生きるのがやっかいだ。