日本の偉大なるベーシスト青木智仁の通夜

 新聞にすでに掲載されていたから書きます。神奈川県の腰越の萬福寺で御通夜が行われ列席いたしました。青木のアルバムやFOUR OF KINDのアルバムがコラージュされていました。
 あいつのアルバム?か角松のアルバム?の曲[ビートルズのwith a little of my freind」のカバーがかかっていました。確か、僕が角松の家で角松にジョーコッカーのバージョン(「ウッドストック映画の演奏」)を見せてカバーしてくれたことがありました。その流れの曲だったのかな。とにかく、my freind。この選曲は誰なのか?泣けてくる
 青木の一人娘が青木そっくりだった。背が高くて、凛々しくて。とても、頭のいい子だって、食事の時、青木の知人の方が話してくださった。現役で大学合格。入学されたばかり。青木も、言ってたいた。娘さんも音楽が好きだって。昨年、僕の構成インタビュー(ペンネームの函館三郎)でやっているCS日本の「音楽の神様」の青木特集の時、休み時間にそんなことを話してくれた。青木のライブを娘さんは見に来て、きちんと感想を述べるのだそうだ。
 僕が披露宴の司会をして結婚して、産まれた一粒種だと思うと、胸がつまる。披露宴の後、何日後かに青木宅に呼ばれ、僕と同じ道産子の奥さんの手作り料理と北海道の漬物をいただいた。こんな身近になつかしい味に会えるとは、湘南ボーイ青木とイナカッペ僕の距離が奥さんの味を通して近くになった。ありがたかった。なんか北の国からの息子役になったような。
 去年、青木は僕に鍛えているんですと、二の腕を見せてくれた。すごい二の腕だった。こいつアスリートのベーシストだと思った。その肉体を作るために
何年も禁酒までしていたというのだから。
 まだまだ、書きたいことがあるけれど、今度、日本の偉大なるミュージシャン青木のことはまた、書きます。
 そうそう、夜の11時過ぎに角松からメールでこれから通夜へ行きますと。今まで、リハをしていたわけだ。青木がいないリハだ。どんな気持ちで角松と角松バンドはリハをやっていたのか。
 親の死に目に会えないなんて、この世界はいうけれど、バンドマンも不憫な商売だ。いくら無地の親友がなくなっても、何万人ものお客様がいるわけだ。早々に、駆けつけられないのだ。
 角松バンドも今が正念場だ。彼らはきっと素晴らしいライブをやってくれると思います。ファンの方はその心意気を受け取ってあげてください。
 僕は過去に青木と角松バンドのメンバーと一緒に舞台に立ち、ボーカルをし、ギャグをやったことを誇りに思います青木がベースをやってくれてると、それだけでも大船に乗ったつもりって感じで。ボーカルを安心させてくれるベーシストだった。今風にいうと癒し系のはしりだ。偉そうに天才プレイヤー(当時から彼らのことを確信していた)青木、角松を従えて、歌う僕は「どうだ!」とばかり、安心してシャウトできた。20年以上前の話だ。それから、角松の渋谷公会堂のステージで三遊亭円生の物真似でラップをやらせてもらった。(あくまでパロディとしてのラップ。僕は日本のラップに疑念的ですから。イトーセイコーさんより早かった。)ベースの青木や角松が受けているのが楽しかった。
 通夜には常連フジテレビの立本くん、前マネージャー小林夫妻、僕の知人もたくさん来て下さいました。帰り道、角松のデュエットをしている旧友国分友里恵ちゃん(ソロシンガー並びに山下達郎バンドのレギュラーコーラス)、その日知り合ったばかりの町原さんと思い出話。「結局、青木のことを悪くいうような奴は誰もいないよなあ。いいよなあ」。。。
  通夜の席では、端っこでドラムの村上ポン太修一さんが亀のように背中を曲げて、生気を失っていました。ドラムがピッチャーなら、ベースはキャッチャーのコンビ。ポン太さん、青木のリズム隊バトルは壮絶だった。
ポン太さんは女房を失ったようにぐったり。
そんなポン太さんにCS日本「音楽の神様」の青木特集の映像のDVDを渡した。
このDVDのテーマは杏里の「悲しみがとまらない」のベースプレイ解説から青木の音楽ルーツ。
 この番組の定番の質問で最後に生まれ変わったら、何になりたいですか?の質問に青木は「やっぱりベーシストですかね」と一言。
 今日、朝、見直したけど本当に「悲しみがとまらない」のだ。そして、本当に青木は音楽の神様になっちまった。
明日、同じ場所で朝九時から告別式があります