JFN PARK 植竹公和のアカシック・ラジオ 燃え殻さんの前半戦が配信中!

 

JFN PARK 植竹公和アカシック・ラジオ

ゲストはテレビ美術の制作会社にお勤めしながら

作家活動を続ける

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燃え殻さんの小説
『ボクたちはみんな大人になれなかった』。

ボクは燃え殻っていう名前、胡散臭いと思いつつ、図書館で手にとって読み始めたら、こちらの大いなる誤解。

主人公は雑誌の文通欄(90年代だが、まだ、こういうシステムが実際あった)で知り合ったサブカルに自分より詳しいちょっとブス(小説にそう書いてありますのですいません)と真剣に恋愛する・・・

90年代の気分を伝えるみずみずしい小説。特に体言止めがとても上手い。

小説家になるキッカケはフツーのサラリーマンながら、9万人のフォロワーがいた燃え殻さんのTwitterを見たスピードワゴン小沢一敬くんからの声がけ。(さすが小沢だ)

現在、23万人のフォロワーが燃え殻さんについている

是非、お聴きください トークルームへの書き込みも是非、お願いします

https://park.gsj.mobi/program/voice/40291

ゲームセンターの新幹線

日本の新幹線のフォルムは非常に美しい。 
昨日、ゲームセンターが無人だったので一瞬、新幹線の乗り物に腰掛けてみました。 
乗り心地を確かめたかっただけなのです。
店員さんが「あ、それ、大人は乗れませんので!」
「わかってます・・・」 静かに下車。
 わずか直径1.5m、いや、もっと短いか。
 この短い円周をグルグル廻って楽しかった幼児の頃(もちろん、新幹線の乗り物ではなかった) 
なんであんなに楽しかったのだろう。
目の前の世界が果てしなく回転し、ブラックホールもように、広がっていく。 
もちろん、頭の中だけの世界だ。 
停止すると、失恋でもしたかのように、いつも、気がスーと抜けて落ち込んだりした。
 一生、停止しないで欲しかった。
 よし、今度、ゲームセンターが無人の時、こっそり乗車してみよう・・・

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細野晴臣さんの音楽活動50周年のコンサート楽屋にて

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細野晴臣さんの音楽活動50周年のコンサート楽屋にて 細野晴臣さんと細野バンドのドラマー伊藤大地と大地くんの

母上の厚子さん(ボクとは20代からの友達)で記念写真。

 ボクが細野さんを初めて見たのは確か1974年池袋シアターグリーンのキャラメルママ(細野晴臣(ベース・ボーカル・ギター・キーボード)林立夫(ドラム)鈴木茂(ギター・ボーカル)松任谷正隆(キーボード)ライブ。矢野顕子さんもゲストに出たような。

 僕は細野さんのベースに憧れたが、いざ、やってみると、16ビートの自分の曲を自分がボーカルで歌うのは至難の技。

 そのことを以前、細野さんに話すと、歌いながらベースは難しいよ、しかも、16だとと同情してくれた。

 細野さんとボクとの共通の友は松本隆さんとナイツの塙くん。

 塙くんはYMOからの細野さんファン。

 あの抑揚のない小ボケ漫才の繰り返し漫才はYMOのリズムがヒントだった。

 ナイツの塙くんに彼らのTBSのラジオ番組に細野さんが来るので、何を質問したらいいかを、聞かれたことがあった。

「細野さんはバンド名を考えるのが趣味だから、そのことを聞いたらいいよ」と答えたら、本当に本番で聞いて収録が盛り上がった。

 その塙くんと細野さんのラジオでの出会いがキッカケで、細野さんがナイツの独演会の出囃子を作ってくれた。

 まさに瓢箪からコマ。

 毎年、その出囃子でナイツは独演会を行う。

 ※当日の細野さんの曲で好きだったのは三拍子の「アンサー」という不思議な曲。

 

 

細野晴臣さんの音楽活動50周年のコンサート楽屋にて

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細野晴臣さんの音楽活動50周年のコンサート楽屋にて 細野晴臣さんと細野バンドのドラマー伊藤大地と大地くんの

母上の厚子さん(ボクとは20代からの友達)で記念写真。

 ボクが細野さんを初めて見たのは確か1974年池袋シアターグリーンのキャラメルママ(細野晴臣(ベース・ボーカル・ギター・キーボード)林立夫(ドラム)鈴木茂(ギター・ボーカル)松任谷正隆(キーボード)ライブ。矢野顕子さんもゲストに出たような。

 僕は細野さんのベースに憧れたが、いざ、やってみると、16ビートの自分の曲を自分がボーカルで歌うのは至難の技。

 そのことを以前、細野さんに話すと、歌いながらベースは難しいよ、しかも、16だとと同情してくれた。

 細野さんとボクとの共通の友は松本隆さんとナイツの塙くん。

 塙くんはYMOからの細野さんファン。

 あの抑揚のない小ボケ漫才の繰り返し漫才はYMOのリズムがヒントだった。

 ナイツの塙くんに彼らのTBSのラジオ番組に細野さんが来るので、何を質問したらいいかを、聞かれたことがあった。

「細野さんはバンド名を考えるのが趣味だから、そのことを聞いたらいいよ」と答えたら、本当に本番で聞いて収録が盛り上がった。

 その塙くんと細野さんのラジオでの出会いがキッカケで、細野さんがナイツの独演会の出囃子を作ってくれた。

 まさに瓢箪からコマ。

 毎年、その出囃子でナイツは独演会を行う。

 ※当日の細野さんの曲で好きだったのは三拍子の「アンサー」という不思議な曲。

 

 

「自己啓発本」というブームは20年は継続しているのではないかと思われる。

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自己啓発本」というブームは20年は継続しているのではないかと思われる。
 そのほとんどが、5分もかからないで読破できてしまう。
 「自己啓発本」はパターンがあって、「落ち込んでいい」「もっと、サボれ」など、ハッとするような良識の反対語を並べれば、はい、出来上がりだ。
 また、筆者のキャラクターを前面に出して、筆者の写真、本当に旅したのか信じがたいのだが、痩せこけたインド人老人の写真とか、ヤケに瞳だけが輝いている貧しい国の子供の写真とかが次々にインサートされ、ほとんど活字がないパターンもある。
 さらに、頭にラーメン屋さんのように、日本タオルを巻いている筆者が若者たちを先導し、コミューンを作ってしまうワイルドヒッピースピチュアル型パターンもある。(どうして、最近、ラーメン屋さんは黒いTシャツを着ている人が多いのか)
 相田みつをばりの短い言葉をアクセントで、筆書きもしたりする。
 いわば、「書を捨て旅に出よう」型だ。
 さらに著名人と食事や趣味を共にした日記型のライフワークを押し出すクレイジーリッチなものもあり、自己啓発ものはみんな<胡散臭い>。

 果たして、自己啓発本に書いてある通りに試してみて成功できるのかというのを番組なり、検証本にしてみてはと考えたことがあった。
 しかし、結果までの道のりが長すぎるので現実的ではない。

 話は長くなったが、サイバーエージェント藤田晋さんの「渋谷ではたらく社長の告白」の件だ。2005年に出版された本。
 当初、先に書いたような自己啓発本なのではと、頭の中の危険胡散臭いアンテナがピピっと反応し、14年も本を放っておいて、最近、読んでみた。
 20代で訳も分からず、会社を立ち上げ、何度となく、自らの凡ミスで陥った会社の危機を、人に助けられ、強運で乗り越え、ついに、26歳、同社の東証マザーズ上場を当時史上最年少で成し遂げた<渋谷を舞台にした真っ当な赤裸々な青春記>である。
 面白かった。

中曽根康弘の記憶メモ2

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中曽根と妻蔦子の結婚は終戦の年。
海軍士官の中曽根。父からはいつ命を落とすかもしれないから孫を見たいの望みもあり、
戦争の真っ只中の昭和20年2月11日結婚。
今なら、ハラスメントな話か?、当時は当たり前にこのようなことが、あったことなのかもしれない。(実は中曽根の実弟は特攻隊で死んでいる)
昭和21年香川県警警務課長の中曽根は父親の反対を押し切り、内務省に辞表を出し、
高崎へ戻る。
思いついたように、選挙に出るためだ。
東京においていかれた夫人の元に消息が入ったのは高崎に入ってから一週間もしてから。
「選挙に出るから群馬に来い」と書いてあった。
夫人はのちに、このことを「結婚詐欺」と笑って話していた。
中曽根は初登庁の時、占領されている悲しい現実を国民として、喪に服し、黒の背広に黒ネクタイという喪服で記者の度肝を抜いた。

横道の話だが、中曽根はカバンにいつもハーモニカを入れていた。
ある時、選挙区の家に泊まり、五右衛門風呂に入れてもらい、ハーモニカを吹いていた。
宿のおばさんが薪をくべて、ハーモニカを褒めると、おばさんのリクエストで何曲も歌謡曲
吹いたという。
また、シャンソンの「枯葉」をフランス語で流暢に歌う

中曽根の身長は178㎝。
調べたことはないが、戦後の日本の首相の最長だろうか?
外交において、首相のガタイのデカさは大事なことだと思う、
いきなり、ハッタリとカマシがきく。
初のサミット参加の時、中曽根は記念写真のレーガンの隣に立った。
中曽根いわく「サミットはオリンピックですよ」
外交は一発勝負のオリンピックの意なのであろう

中曽根康弘の記憶1

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中曽根は首相になり、話題になったのは日の出山荘レーガンとのロンヤス会談。

(地元ではロンヤス饅頭も売られた)

当時、中曽根は借家住まい。家主は実はMr.長嶋茂雄

その借家が手狭ゆえ、日の出山荘を提案したのは中曽根のブレインをやっていた劇団四季浅利慶太だった。

山荘内も短期間で整えなければならないと、劇団四季の小道具倉庫から屏風を持ってきた。

料理は料亭吉兆の女将湯本照子にまかせた。